自分の中の常識を疑うこと その2

投稿日:

前回の記事に、自分の中の常識を疑うということについて書きました。自分が常識だと思うことは自分が常識だと思っているだけで絶対的なものではなく、自分が変わるためには自分の中の常識を壊すことも時には必要なのだろうと思っています。壊すのにはエネルギーがいりますが、一旦やってしまうと新しい景色が見えて来ます。人は世界を「自分が見られるようにしか見られない」のではないでしょうか。自分が「世の中とはこうである」と見るとしたら、見えているものは自分自身の限界を表すものであり、見えているものに対して自分が下す評価は自分自身の「見る力」に対する評価でもあるという気がするのです。見えていないものを評価することはできませんから。

そう考えるようになったきっかけが20代の頃にありました。

というのは、私は20代半ばで現在の夫と結婚して現在に至りますが、一緒に生活するようになってしばらくしてから、夫が私とはまるきり違うタイプの人だということに気づいたのです。別々の国で異なる言葉を話しながら生きて来たという時点ですでに異質な相手でしたが、それだけではなく身体的特徴から趣味から習慣からありとあらゆるものが違っていました。長年一緒にいるうちに互いに影響し合って今では似た者夫婦になりつつありますが、結婚した当初は対極夫婦と言っても言い過ぎではないくらい違っていたのです。

夫はドイツ人の中でも特に長身で私は日本人の中でも小さい方。夫は外向的で社交的、スポーツが得意でアウトドア派。私は一人でいるのが好きで運動音痴のインドア派。修めた高等教育は夫は理系学科、私は文系学科。夫は田舎が好きで、私は町が好き。インテリアの好みも、夫は機能重視だけれど私はデザイン重視と全く違います。夫は寒がりで私は暑がり。趣味は互いにかすりもしませんでした。夫が好きなことには私は興味がなく、私が好きなことには夫は興味を持っていないようでした。

私はとてつもなく異質な人をパートナーにしちゃったんだなあ、、、と気づいたときにはもう結婚していました。時すでに遅し。なぜ結婚する前に大事なことを確認しなかったのかと言われそうですが、まあ早い話が若かったのです。勢いで結婚してしまいましたから。当時は互いに言葉が完全に通じていたわけではないことも、相手をよく知らずに結婚した原因の一つだったのでしょう。

何もかもが自分とは違う夫には驚かされてばかりでしたが(当然、夫の方でもそうだったでしょう)、何よりも驚いたのは夫が「全く本を読まない」ということでした。これは本当に衝撃でした。私は小さい頃から本ばかり読んでいた本の虫で、本を読まずに生きることなど想像もできません。「本を読むのは良いことだ」「本を読まない子は賢くなれないよ」などと言われて育って来たのでそう思っていたし、本を読まない人を内心バカにもしていました。「本を読まないなんて、視野の狭い人に違いない」「本を読まずにどうやって教養を身につけるのだろう」と。だから、夫が「学校で読まされた本以外はほとんど本を読んだことがない」と言ったときの私の驚愕は凄まじく、そのような相手をパートナーに選んだ自分が信じられず呆然としてしまった。

でも、本当の驚きはその後にやって来ました。

本を一切読まない夫は多くのことを知っているんです。はっきり言って、多読を自負していた私よりもずっと視野が広く、知識が豊富でした。家の中でばかり過ごして来た私とは違い、文字通り野山をかけ回って成長した夫は自然のことをよく知っていましたし、手を動かしていろいろなことをするので理屈だけではなく実際的な知識も多く持っています。そして、活字を読むのが苦手で本は読まないけれど、外向的な性格なので人の集まるところへ始終出かけて行って会話を通じて情報収集し、テレビで大量のドキュメンタリーを見、通勤中にはいつもポッドキャストを聞いています。そんな夫を見ていて初めて気づきました。

そうか、情報収集の手段って読書だけじゃないんだ。

知識を得たり視野を広げるための手段にはいろいろなものがあり、人によって得意な方法が違うのだなと。確かに自分は読書量は多いけれど、「読むこと」に偏り過ぎている面があるのかもしれない。本を読むことは良いことであるにしても、それが全てでも絶対でもなく、ましてや「本を読まない人は視野が狭い」などと決めつけていたなんて、視野が狭いのは一体どっちだろう。自分がしていることをしない人は自分よりも劣っていると考えるのは驕りだよなあ。私はいろんなことを決めつけて他人を評価しているばかりか、自分自身もそれに縛られて生きているんだな、、、、。

そう気づいた後も、もし本を読むという趣味を共有できる人と一緒になっていたら楽しかっただろうなと感じることはやはりありました。だって、夫とは面白かった本について語り合ったりはできない。でも、本を読むのが苦手という人に無理に読ませることはできません。そこで発想を変えました。こう考えることにしたんです。「私と夫は異なる情報チャンネルを担当しているのだ」。私は主に書籍、雑誌などの活字メディア担当。夫は映像メディアや音声メディア担当。テーマについても得意分野が違うので、それを互いの担当とみなし、それぞれ得た情報を持ち寄って共有すれば倍楽しめるじゃないか。趣味が合わない、共通項がないと思って自分をシャットダウンしてしまったら夫と私は別々の世界をパラレルに生きることになってしまうけれど、自分と違う相手は自分に知らない世界を見せてくれる扉なのだと思えば、逆に大変お得なのでは?

この発想に切り替えてからは、理解できないものに遭遇する瞬間は自分にとってのチャンスなのかもしれないと感じるようになりました。いろんな人と話していると自分とは全く違う考えの人に遭遇することも多く、「えええっ」と衝撃を受けることもありますが、こちらがびっくりするということは当然向こうもこちらにびっくりしているわけです。こちらが正しいという保証はどこにもないのですよね。「共感できない」と思った瞬間に切り捨てず、とりあえず話だけでも聞いてみて、考えてみてから切り捨てても遅くないし、運が良ければこれまでに見たことのない景色を見ることができるかもしれない。

まあ、言うは易しでいつもそれができているわけでもないのですが、、、、。でも、できるだけそういう心構えでいたいとは思います。

私が住むドイツには城壁に囲まれていた中世の面影を残す町があちこちにあります。城壁の残る町って素敵なんですよ。そんな古い町並みを見て歩くのは大好きだけれど、自分が城壁の中に閉じこもって暮らしたいとは思いません。私は壁の外に出たいですよ。

壁の向こうの景色が見たい。少しでも遠くへ行きたいです。